注目すべき坂口登の残像処理 田中幸人


坂口登という画家は、分断された二つ以上の制度(国家、社会、習慣、知覚、生理)の申し子であるかのような不思議な作品を提供してみせる。私たちが彼の作品の前に立ったとき、それはなぜなの?という刺激が、記憶の中というより生理的な刺激となっていつも次の問いをうながすところがある。


彼の作品の最も面白い点は、誰もが即座にわかるように「抽象」と「具象」の鮮やかな二つの面を左右に同じ大きさに並列してみせ、見る側の網膜生理を心地よく狂わせてしまうことではなかろうか。狂わせる、という言葉が曖昧に聞こえるなら、脳髄のどこか奥の方(脳カン)で、この二種類の光(色彩とかたち)がまじり合いウズウズしはじめる。私たちの記憶の中でかつて存在したこともなかったような空間が複合し合い、その処理に立往生する。その知覚生理の過程にとまどいながら、次はどうなるの?という問いを次々に発生させるので何度見ても記憶で覚えていた以上の魅力となって存在してしまうようだ。

「抽象」と「具象」の二つの面は、よくよく眺めてみると、いくつかの仕掛けが潜ませてある。まず「抽象」の面だが、三色以上の無数の斑点で描かれている。この斑点は絵の具をふくませた筆を手首の先だけ振り動かすことによってコンスタントの大きさの飛沫を飛ばしながら画面が均質化するように工夫される。この技法は作者によって「Splash(飛ばす。散らす)」と名付けらているが、作業量の根気強さもさることながら、作者の内では、形態と奥行きを極限まで排除していこうとする無意識の意識が、そのパフォーマンスにはプログラミングされているらしい。そしてもう一方の「具象画」には極彩色に彩られた草花や植物、果物や小鳥、かたつむりなどが描かれている。「抽象画」地味で不透明な白濁空間にくらべるとまるで熱帯植物園のように対比的で明るい。もうお気付きだろうが、「抽象画」と「具象画」の極彩色との間には、しばしば補色の関係によって、チカチカと第3のイリュージョン(残像)が網膜生理空間に起こるように企てられている。画家は左右いずれの空間が自分の性に合っているのか、なんていうことは思ってもみないはずだ。左右いずれも自分から自然に発生した像なのだ。どちら(の知覚)が正しくどちらが誤っているかということについてはほとんど関心がなさそうである。

このユニークな色覚体験をさせてもらったのは、確か1980年代の前半ぐらいではなかったろうか。いったい相反する二つの画前を並べながら作者はどんな連立方程式を解こうとしているのか、もちろん画家がそこで実験しているのは、生理光学もしくは知覚心理学的なきわめて生の視覚生理上の問題であるのだけれど、私たちの両眼視差に生起する不可思議さはすべてが科学的に解決されてしまったことではない。彼の日本ではじめての東京個展やグループ展を見ながら、この画家の作品をじっくり観察してみたくなっていた。

つい最近作「TIMES AND ESSENCE OF NATURE」(2000年)は、それから以後の新しい実験が試みられている。抽象画の中にぽつんと孤立していた第1の四角形象(補色の生理のさいに生れる第1の残像)が同心円状に変化してきたことである。また、飛沫が全体に及んでいることは、この作家が形態と奥行をとことん排除して全体野(ガンツフェルト)という下敷を作っておいて、それとは正反対の、表面現象としての具象を不透明な全体野の中にフワフワ浮かしてみたい衝動が走りはじめたことを思わす。この人は色を混ぜない。とくに飛沫部分は飛ばした色がそれぞれ独立しているので光のような不透明空間となり深淵さを強調する。その中に赤又は青の補色(反対色)がきらめくと、左右の画面はいっそう活気付いて全体野が色めき立つ。何かが新しく生起しているのだ。つい最近のことだが、カルフォル二ア工大の下條信輔教授(知覚心理学)の発表によれば、補色の残像には第2の残像ともいうべきもうひとつの残像が現れるという。それは反対色というより白濁に近い残像であることがわかったそうだ。このような実験心理学上の手助けもあると坂口作品もこれからますます面白くなりそうな雲行きである。

作者は熊本県の中央町に生まれ育っている。12歳の小学生のとき、母のつてを頼ってロサンゼルスへ移住、美術の勉強はそのほとんどを米国でしている。ルーツを二つの国に分断された少年が、ルーツの中で繰り返し浮かび上がる知覚のセンスにどのように折り合いをつけながら今日に至ったのか。今回の個展には20代の学生時代の作品「ON THE EARTH」(1971年)など、もっと注目されていいはずの作品も含まれている。当時アメリカ美術界は多分、ミニマリズムの全盛期、ミニマリズムへの激しい反撃心などもうかがわれて大変興味深いが、その作品は分断されてきたセンスの中から、アイデンティティを捜そうとする格闘が早い時分から試みられてきたことがわかる。全体野―アイデンティティとしての全体野は、この作家の中でいまも激しくうごめくと見える。その根底に支えられて、対照的な二つの画面は自由さを獲得しているようである。
たなかこうじん・美術批評家/熊本市美術館準備室美術専門員
(2001年 SUSUMU SAKAGUCHI PAINTING より)
 
 
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