坂口 登の絵画 村上 哲

2 :スプラッシュの飛沫、連鎖するイメージ



きわめて対照的に映る坂口のふたつの画面だけが、間近によって凝視すれば、抽象の空間にはもちろんのこと、具象のイメージの背後にも、無数の飛沫が浮遊している事に気づかされる.坂口のこのユニークなテクスチュアは、絵具をひたした筆を画面の上で大きく振りながら、絵具を飛ばして画面にはねかけていく”スプラッシュ”の技法で作られる。カンヴァスを床に平らに置き、絵具の飛沫を全身に浴びながら、作品のまわりをぐるぐる回る画家の身ぶりは、傍らで見る者の眼には、さながらルアー・フィッシングの投げ釣りの姿のように映るだろう。坂口のスタディオでは、床、壁、椅子に至るまで、すべてのものが細かい絵具のしぶきで覆われているという。ならば、無限に広がるかのようなその飛沫の世界の一部を切り取ったものが、坂口の絵画といえる。そして、そのアプローチの仕方は、絵具をまき散らして現代絵画に新境地を拓いた、抽象表現の画家ジャック・ポロックの画面を彷彿とさせるものだ。


確かに、1970年の前後には、坂口は、ポロックのように床においた広い紙のなかに身体ごと入り込み、その上で絵筆を大きく振り回しながら、まるでダンスを踊っているかのようなジェスチュアで制作をしていたという。その現場では、絵筆を持つ腕が「無限大のフォルム=∞」を描きながら、大きく宙を舞う。そして、筆と紙とが触れあってぶつかるインパクトの群れは、無数の筆触(ブラッシュストローク)へと姿を変えながら、折り重なる網の目のごとき宇宙となっていく。ロバート・ホップスの言葉を借りれば、中心のない「周縁的なヴィジョンによる、抽象表現主義」が、絵画性豊かなイリュージョンを醸し出しながら、多焦点のオール・オーヴァーな画面を形づくっているのである。


「巨大なる紙の上に立ち、作品の中にすべて入り込み」、無意識の状態にまで自分を追い込んでゆく。・・・・与えられた空間そのものが私の宇宙観であり、世界となる。・・・・深層心理からわきおこる考えや気持ちを、音楽を奏でるかのように描きつづけてゆく。」(坂口が1970年頃の制作について語った回想録より抜粋。)

この言葉から浮かび上がる画家の姿はポロックのそれと重なるもので、筆の先から絵の具の飛沫がほとばしる舞踏のごときこのテクニックは、画家に、”スプラッシュ”(絵具のはねかけ)に孕まれる変幻たる価値とその技法としての有効性とを目覚めさせた。そして、このの坂口は”スプラッシュ”に焦点を絞り、これをスタイリッシュに突き詰め洗練させることで自らの表現様式を完成させる。

1980年代に入り、画家は、再び、”ペイント”(描くこと)と”スプラッシュ”とを併存させるようになるが、絵画に対するその基本姿勢は当初から変わらない。今回の展示には、”ペイント”と”スプラッシュ”とが混在する、巨大な紙を支持体とした初期の作品も展示されるので、坂口の作家としての原点に触れることができるだろう。その表現や印象はまったく異なるものの、ポロックのドリッピングによるエネルギーの横溢する画面と、きわめてコントロールされた手法によって整然と配された坂口の飛沫とは、そのアプローチと存在のありよう自体は同一の地平で語りうるものなのである。

筆から飛ばされる絵の具の飛沫とは、いったん画家の手元から放たれ、そして画布にたどり着くものである.この存在のあり方は、描く主体と絵画という客体とのはざまに、「物理的な隔たりと精神的な距離を」措定するものであろう。その様態がいかようなものであれ、画家の手と意識とから投げ出された飛沫は、ヒトとモノとの、精神と物質の境界にある揺らぎの領野で宙づりにされ、画家自身の生の発露と、作品自身が事物としてそこにある実存とが切り結ぶ地点にある。そして、何物にも属することなく大いなる自由さとともに浮遊しているものといえるだろう。ならば、飛沫とは、すでに作家の手も届かず、かといって作品に隷属することもない媒介者なのであり、意識と無意識とのはざまの地点に、意識と無意識とを繋ぐエレメントとして、このスプラッシュの皮膜は存在している。

この観点において回帰するならば、今より半世紀前に、棒や筆でさらには絵具缶から直接、油絵の具やエナメル絵の具を垂らしていたポロックの”ドリッピング”(絵の具の垂らし)や”スプラッシュ”(絵の具のはねかけ)こそ、真正な意味において、無意識的なオートマティスム(自動筆記)による産物でもあった。しかし、それが、画家の身体の動きと連結しながら、意識と無意識とのぎりぎりの臨界で成し遂げられたために、作品は避けがたい実存の証として立ち現れたのであった。その昔、アクション・ペインティングの言葉で括られたポロックの画面だが、実は、意識と無為意識とのせめぎあいのうちに構造化された、きわめてフォーマルな産物であった事は疑い得ない。また、はねかけやたらし込みなど、画面に偶然性を取り込んで思いがけない効果を生む絵画技法が、わが国古来の表現である事はいうまでもない。

ポロックのドリッピングと日本的な美意識とをその祖にあわせもつ、この飛沫の空間。その存在の意味へのアプローチこそ、坂口の作品とは何かを考えるひとつの手がかりを提供するものと思われる。作家を典型するディプティーク(二連画)の形式において、抽象の画面では、重なり合う飛沫がその背後の奥深い空間へといざない、具象の画面では、無数の飛沫を背景にして、その上に花やとり、動物といったモティーフが乱舞している。すなわち、飛沫の網目が作り出す空間の膜を機軸として、一方は奥へと瞑想され、他方、手前の方へと饒舌に語るか絵画が、坂口のディープティーク構造である。

様々なイメージが乱舞する画面に目を移してみよう。そこに犇めきあうモティーフは、何の連関性もなくまき散らされたもので、はじめに描かれた画像が次のヴィジョンを生み出しながら連鎖的に繋がっている。飛沫をまき散らして作られたふたつの画面のうちのひとつを、今度は床から起こし、壁に立てかけてイメージが描き込まれてゆくが、構想(コンセプト)されずに、意識をフリーにしてランダムに画像化されたものたちの群れには、読む取るべき意味やコンテクストがない。というのも、そのオール・オーヴァーな画面は、下描きなしに偶発的なイメージが紡がれていったものであり、画面は、図像が差し出す「意味」とその非文脈的な「無意味」のはざまに宙吊りにされる宿命にある。明晰なイメージと簡素な形式によって、きわめて意識的に見える坂口の絵だが、このように見てくると、実は、意識と無意識とのはざまにぐものだと、私達は気づかされるのである。

坂口のこのイメージの描き方は、醸し出す趣やモティーフこそまったく違うものの、どこかシュルレアリスムの画家イヴ・タンギーの手法を思い起こさせる。タンギーは、画面に一つの有機的な形態のオブジェを描き、それを起点にして次々にイメージを連鎖させてゆくピュアな手法で、無意識の中に広がる風景と深層の淵とをかいま見た希有の存在だった。船乗りからシュルレアリスムの画家へという異色の経歴を持つタンギーは、パリ生まれだが第二次大戦下の1939年にアメリカに移住し、戦後のアメリカ絵画に深い影響を与えたことは良く知られている。ただ、ここで坂口の絵にタンギーの影響を云々いいするつもりなど全くないし、その事実もない。ただ、深いところで通底しているこの近似性は、絵画というメディアが持つある秘密を解き明かす鍵を提供するものである。

今回の新作で特に目を引くのは、抽象の画面の中心に配置されているフォルムが、四角から円へと変貌したことだろう。これまでの小さな四角形は、画面全体の短型のフォルムから導き出されたものであり、全体が示す絵画空間とは異なる、別の空間の位置を措底しながらも、画面を構成する一要素として作品に組み込まれていた。これに対して、円のフォルムは、画面全体を支配する丸い飛沫と呼応しながら、求心的であると同時に、遠心的な効果を作品にもたらしている。言いかえれば、この円は、四角である作品全体の構造に対立し、抗おうとする独立したオーガニックな生命体として息づいているのであり、そこには、完結した世界から未決の領域へと踏み込もうとする、作家の新たな意志さえ感じられる。

具像のイメージの下地に、大きな筆触(ブラッシュストローク)や絵画の滴りが見てとれことも新鮮だ。これまで、坂口が作る画面の下地は筆跡を残さずフラットに塗られていたが、一転、イメージの背後には隙間の見える別の空間が息づいている。制作のプロセスとしては、大きな筆さばきでタッチが描かれたのち、スプラッシュによる絵画の飛沫の層が撒かれ、その上に花や果物のイメージ乗せられている。具像のイメージは、絵画の物質性が抑えられ、平坦でメタリックな感触を持つ一方、一番背後にある勢いのあるブラッシュストロークや滴りは、抽象表現主義のそれを想起させる。そしてスプラッシュの皮膜は、これらきわめて絵画的=ペインタリーなふたつの空間に挟まれている。それぞれの層が透けて見え、輻輳する空間の構造。そして、絵画を組み立てるこれらの諸要素の併存が、フォーマルな洗練を突き詰めることで、より際立っていることを見逃してはならない。とすれば、すべてのものが相対化される坂口の画面の中心にあるものとは、反語めくが、その中心に無が充満する「空の概念」ではなかろうかという思いに至る。

むらかみさとし・比較芸術学/美術館キュレーター
(2001年 SUSUMU SAKAGUCHI PAINTING より)
 
 
 
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