坂口登自伝 坂口登

ニューヨーク 表現に問われるルーツ


ニューヨーク市(NY)は人口740万人。マンハッタンは東京・世田谷区ほどの小さな島だがところ狭しと高層ビルが並び、昼間は人口500万人ほどに膨れ上がる。アーティストと人口密度は世界一といわれるマンハッタンの下町、ブロードウェーとキャナルストリートが交差する地域の少し南に、私のロフトがある。

 
ロフトとは、天井が高い倉庫ビルの広いスペースを改造して芸術家の住居兼アトリエにしたものだ。 チャイナタウンやリトルイタリーは歩いてすぐ、キャナルストリートはアジア系の食材や雑貨を扱う店がところ狭しと軒を並べる。この界隈は、異種混交のエネルギーに満ちている。NYの美術の中心と呼ばれたソーホー地区も徒歩5分。かつてそこも倉庫街だった。

 
そもそも安い家賃が魅力で芸術家たちがロフトを構えたが、急激に家賃が上がり、マンハッタンには住めなくなりつつあるのが現状である。しかし、アートの中心がマンハッタンであることは変わりはしない。私はこのロフトで、30年余り画家として生活(サバイブ)してきた。



1973年カリフォルニア芸術大学大学院を修了後、自動車でNYへ旅立った。できる限りのカンバスと絵の具、3か月分の生活費を持ってアメリカ大陸を走りつづけ、4日目にマンハッタンにたどり着いた。

 
その当時ソーホー地区は、ホームレスがあふれていた。資本主義の頂点に立つこの街は、生活の基盤や目的の無いものを容赦なく最下層まで転落させてしまう非常さと怖さを持ち合わせていた。世界中からこの街へとあらゆる分野のアーティストがやってくるが、多くが挫折感を味わうという。生活の厳しさと競争に負けてしまうからだ。

まず生活の基盤を作らねばと、アルバイトを始める。1週間のうち3日働き、4日は絵を描く―自分のシステムを決め、制作中心の生活を心掛けた。NYで本当の意味での制作活動に入るには2年を要した。この町と自分の呼吸が共鳴し合うには、それくらいの時がかかる。

数々のグループ展を行う中、最初のチャンスが訪れたのは4年目。57丁目のノベギャラリーで、画廊企画の個展ができた。その後、アートコレクター(ホイットニー美術館副官長)の一室に描いた壁画がアメリカンヴォーグ誌に紹介され、ソーホーの有力な画廊ディレクターの目に止まった。アレキサンダー・ミリケンギャラリーでの個展も実現し、NYの現代美術作家としての基盤ができたのは78年のことだった。


アメリカへ渡って45年になる。だが、私の中で変わらないものがある。日本人としてのルーツであろうか。アメリカという国は、世界人種が寄り集まってひとつの社会を形成している。多種さまざまな文化と人種が交じり合う中、芸術を通して「自分」を表現していこうとすると必ず、その人のルーツが問われる。どこで生まれ、どこで育ったか、時代、場所、これまでの体験そのものが、その人たちの「かたち」ではないかと。


人は12歳までに個性が決まるというが、私はその時期を日本で過ごした。熊本県下益城郡中央町の、自然豊かな田舎に生まれ育った。毎日、友達と夢中で遊んだ。川で魚を捕ったり、日暮れまで山を駆け巡ったりした。この体験が私の核なる部分を作り、町の人々とのふれあいが私の精神性を築いたのだと思う。

日本とアメリカ画の重層した文化体験が、制作にも大きく影響を与えてきた。過去と未来が同じ次元にあるように、今、私は感じている。新しい時代は自然と精神性の調和から生まれるのではないだろうか。

2001年を迎え、マンハッタンで私自身を振り返るとき、原点である熊本へ、思いをはせるのである。
 
(2001年3月13日 熊本日日新聞 掲載文より)
 
 
 
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