坂口登自伝 坂口登

渡米 一言で語れぬほどの驚き


1944年12月。第2次世界大戦が終戦を迎える半年前、下益城郡中央町に私は生まれた。戦時中の体験は私にはないが、戦争の名残は鮮明に記憶されている。月に1度ほど、アメリカのGI兵が乗ったジープや大砲を積んだトラックが数10台も走り抜けていくのを見ることもあった。

アメリカ兵も、ジープも珍しかった子どもたちは、車の後を追い掛けて走る。どこまでも付いてくる子どもを追い払うかのように、兵士はチューインガムを田んぼの中に放り投げた。必死でガムを拾う子どもたちの中に私もいた。

私の小学校時代は、日本の経済が自立する以前、復興の混乱のさなかにあった。呉服店を営んでいた母は、遠く阿蘇まで反物を運び、米や食料品と交換しなければ、まだまだ物が無かった。私も鉄くずを拾い集めては売って、小遣い銭にしていた。


戦後10年がたっていたが、生活の厳しさを実感していた母は、自分が生まれたアメリカへ行くことを決める。母の父は冒険心の強い人で、日露戦争を逃れてハワイ、そしてサンフランシスコへ渡る。日本人女性と結婚し、母はアメリカで生まれた。

のち母だけが帰国し、中央町で家庭を持ったのだが、時々アメリカから便りとともにブルージーンズや革靴が送られてきていた。アメリカの状況を知っていた母は、アメリカへ行くほうがいいと考えたのだった。

渡米の手続きに2年近くを要した。移民船「ブラジル丸」に乗ってロサンゼルスへ行くことが決まったのは、私が12歳の時だ。その当時、学校の先生の月給が2万5千円。、ブラジル丸の旅費が1人8万円だった。

私は両親と兄、姉、妹の6人家族。話し合いの末、経済的な理由と「日本へ残りたい」という父の思いもあって、父と姉は日本に残り、家族が2つに別れることになった。

中央町の人々に別れを告げ、神戸へ向かう。バスと汽車を乗り継ぎ17時間かけて到着した。家族全員で2日間をすごし、別れを惜しんだ。

56年2月1日、ブラジルへ400人、ロサンゼルスへ17人の日本人移民を乗せブラジル丸は出航した。何百人もの人々が港の桟橋で見送っていた。もう会うことがないかもしれない―まさに別れであった。

膨大な量の紙テープが投げられ、5色の束になってユラユラと揺れていた。「ホタルの光」が流れる中、人々は手を握り合い、叫ぶように名前を呼び合った。「僕は男だから泣くまい」と決めていたが、向こう側に父と姉がいると思うと涙があふれた。

日本を出て3日目に大あらしに遭う。机が10メートルも動き、沈んでしまうのではと思うほどのあらしだった。その後は穏やかな旅が続き、太平洋にてペルシャンブルーの海と空が1つに感じられた時もあった。


14日目にアメリカ大陸が見えた。サンフランシスコ沖で船はいったん止められ、入国のための審査官が4、5人乗り込んできた。大きく、背が高く、厳しい―。初めて接したアメリカ人の姿は、12歳の目にそう映った。

2月15日、ロサンゼルス・サンピードロに入港。巨大なるアメリカが私の目の前にあった。何よりも驚いたのは、道が広く大きいことと車の数だった。日本を離れたとき、中央町全体で自家用車は1、2台ではなかっただろうか。アメリカでは各家に平均3台あり、8車線もあるアスファルトのフリーウエイをアメリカ車がものすごいスピードで走り抜けていく。 カラーテレビ、冷蔵庫、洗濯機、掃除機、ヘヤドライヤーなど、すべての電化製品がどの家にも備わっていた。

今から45年前、日本とアメリカの違いは子供の私にとって恐怖でもあった。文化の違い―カルチャーショックを、一言で語れぬほどの驚きを私は受けてとめた。
 
(2001年4月17日 熊本日日新聞 掲載文より)
 
 
 
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