坂口登自伝 坂口登

12歳の個展 絵画通して異文化を体得


1950−60年、ロサンゼルスの映画の都、ハリウッドは黄金期を迎えていた。マリリン・モンロー、ジェームス・ディーン、エルビス・プレスリー次々と大スターが誕生し、ヨーロッパやアメリカ全土から人々が集まり、経済はめざましく動いていた、。まさに「世界のハリウッド」であった。


日系人移民も20万人に達し、当時の日本人街は今よりはるかににぎわい、大正時代そのままカフェや食堂、映画館が立ち並んでいた。休日になると郊外で働く多くの日系人たちが日本恋しさに集まり、酒を飲み語り合った。。町は夜が明けるまで人であふれていた。

ロサンゼルスへの家族と移住して3ヶ月目に、私はアップタウンにあるアグノリア・アベニュースクールに入学した。この学校は東洋人と黒人は1割にも満たず、ほとんど白人で占められていた。日系3世が数人在学はしていたが、日本語の話せる生徒はいなかった。


そのころ、外国人を受け入れるシステムがなく、英語の分からない私は、当時小学6年生であったが3年生のクラスへ入れられた。それでもほとんどの授業が分からず、教師から「何が好きか」と尋ねられ「絵を描くのが得意だ」と答えたら、教室の角に私の席が設けられキャンバスとイーゼル、絵の具が与えられた。

毎日絵を書くのが私のアメリカ学校生活のスタートであった。画材をふんだんに使って絵を自由に書くのは実に楽しかった。その反面、言葉のわからない異国へ放り出されたという戸惑いと不安は大きかった。

私がまだ物心着かない幼児期ならば、自然に順応しただろう。また20歳前後の青年期ならば、拒絶や選択を通して、意識的に新しい環境を受け入れていったであろう。だが、12歳という肉体的にも精神的にも定まらぬ時期ゆえに、クラスメートとぶつかることもたびたびあった。

ある日、クラスメートが「日本は小さな島」と言ったことに対して「日本は国だ」と答えたら、世界地図を見せられアメリカと日本を指さした。地図には「ジャパンアイランド」と記されていたが、納得できない。そのうち取っ組み合いのケンカにまでなってしまったが、彼らの言葉に「NO!」を言いつづけた。子供心に日本は立派で大きな国と私は信じていた。

美術の時間になると、私も呼ばれ授業に参加した。それぞれに自由にイメージを描くのだが、彼らの描く山や空や雲は赤や黒や紫に彩られた。「山は緑、空は青、雲は白」と思っていた私にとって、彼らの描く色や形は不思議であり、疑問に感じた。なぜ、そうした色になるのだろうか?その後、日本にはない風景がここにはあるということが分かってきた。

確かに砂漠の中の山は赤や黒であるし、カリフォルニアの乾燥した空気の層は紫に映る。私は絵画を通して、お互いの違いを知り理解しあうということを学び、彼らと少しずつコミュニケーションをとっていった。風土や地形によってそれぞれの文化が築かれてゆくということを体得した。

市の教育委員会から学級教育状況を年に何回か視察にくる日がある。校長先生と数人の委員が、教室の角で絵を描いている私の席にもやってきた。毎日描き続けていたので、私の机の周りには何十枚もの作品が積み重なっていた。その中の数枚を手にとって「ビューティフル、ワンダフル」と口々にほめてくれた。

それからは、たびたび校長先生がやってきては、作品をながめていた。ある日、校長室と職員室のホールウェイをすべて使って展覧会をしないか、と校長先生から勧められた。こうして私の1回目の個展が始まり、これが私の美術への認識の1歩となった。

ゴールデンエイジの始まり。そのころのアメリカは、世界に誇る文化を作り上げるために、芸術や音楽、宇宙開発やテクノロジーとあらゆる分野に全力を注いでいた。


民主主義の根本である個人の自由への尊重―。ロックスターの音楽やジャクソン・ポロックら抽象表現主義に代表される自由的発送の芸術がアメリカ独自の文化としてとらえられた。学校教育でも美術に対して意識が高まり、いろいろな試みが、次々と実行されていった時代であった。

1956 年、初めての個展、私は12歳だった。
 
(2001年5月15日 熊本日日新聞 掲載文より)
 
 
 
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