坂口登自伝 坂口登

14歳で美術大学へ ふくらんだ画家への夢


1957年の秋、私はフォーシェイ・ジュニアハイスクールへと進級した。その当時の中学校内には、英語の話せない外国人の転入生が急激に増えていた。それは、アメリカが高度経済成長の中,農業に従事する人材が減少したため,メキシコをはじめ中南米から多くの労働者を受け入れていたためだった。そして、中南米から移住してきた人々は、カリフォルニア州の中心のロサンゼルスへと集まった。

そのころヨーロッパでは、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアなどの国々に社会主義の動きが強まっていた。東ヨーロッパから民主主義の国のアメリカへと家族移民が増え時代であった。

学校側は、そうした異文化圏から転入してきた学生でも、スムーズに教育が受けられるよう、対策をとった。外国人のためのクラスが設けられ、英語を正しく理解しアメリカンスクールで学習できるよう指導が行われた。私もそのクラスでワンメスター(1学期)学び、自分の住む地域のジョアンアダムス・ジュニア・ハイスクールへと転校した。


アメリカの学校では、個人の才能や個性を伸ばす教育方針がとられている。そのため、早くから何を専攻するか選ぶことができる。私は中学から美術学科の絵画を専攻し油絵を学んだ。私の美術の担当は黒人女性の教師だった。彼女は、私を高く評価し、美術の才能を認めてくれた。数多くの作品を校内に展示し、制作を続けるようにと勧めてくれた。

1958年、ニューヨークのカーバイトビルで全米美術学生大会が開催された。先生は私の作品(植物を一面に描いた抽象絵画)を選び、コンテストに出展する手続きをとってくれた。ロサンゼルス代表の3人の中にノミネートされ、その結果、絵画・油絵部門で全米1位になった。

アメリカ・キワナズクラブ主催の受賞パーティーで、私は全米1位のメダルを受け、多くの報道陣の前で英語でスピーチした地元紙「ロサンゼルス・ヒーロー・エグザミナ」などの新聞やラジオで報道された。

渡米して3年目、私は14歳の少年であったが,絵画を通して,異国における自分の存在を確かものとして感じることができた。そして、この受賞は、画家への道しるべとなった。

ロサンゼルス市から、オーティス美術大学で美術を学ぶグラント(奨学金)が与えられた。中学校に通いながら、夏休みの3ヶ月と毎週土、日曜日には大学に通うことになった。

いわゆる天才教育であった。裸体デッサンの基礎トレーニングを受け、油絵のテクニックを学んだ。美術理論や美術史も勉強。ニューヨークの作家の活動にもスライド説明などで触れ、アメリカのアートシーンを目の当たりに感じ取ることができた。


私は、ますます美術に深い興味を見いだし、時間があれば美術館や展覧会に足を運んだ。思春期であった私は、毎日のように美術への思いをめぐらした。なぜ形があるのか?作家の色や表現とはなんであるか?人間はなぜ行動するのだろうか―。

アーティストとは、個人の好き嫌いの判断や、自我の表現にとどまってはならない―。その時代の現実に触れ,独自の感性を持って意識を通じて,作品へと向かうことを学んだ。固定観念にとらわれず,自分自身を超え,人間と言う動物的角度(純粋な直感)から物事を見てゆく。そうすれば必ず人に通じるものがあると私は考えた。

社会の中の美術の「かたち」を肌で感じ取り、私の美術への意識は一気に広がった。

こうした美術環境の中で、仲間と出会い、ともに体験し問題を語り合うことで,自分自身に自信を持つことができた。そして,少年の私は画家としての夢を大きく心に描いていた。
 
(2001年6月12日 熊本日日新聞 掲載文より)
 
 
 
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