坂口登自伝 坂口登

ハウスボーイ 初めて知った現実世界



私は14歳からロサンゼルスしの奨学金を受け、オーティス美術大学で美術を学び始めた。そのころから,美術に対して深い興味を持ち,社会と美術のかかわりについて意識をもって見つめるようになった。

ある日、新聞を開くと、日系児童美術作家の八島太郎氏(鹿児島県出身)がニューヨークあらロサンゼルスに移り住んだという記事が目に留まった。「日系美術協会を結成、第1回日系美術展に出品のアーティストを募集する」と記載してあった。

私はさっそく作品を出展する手続きを取った。搬入の日に会場で八島さんと出会った。当時八島さんは50歳を超えたころであった。14 歳の少年の私を快く迎えてくれた。「社会に対してひとりのアーティストは微力である。共に力をあわせ美術運動をやっていこう」と語ってくれた。

当時、ロサンゼルスには20万人もの日系人が滞在していたが、文化や芸術への意識は薄かった。

第2次世界大戦の時、アメリカは日系人を収容キャンプに入れ、個人の財産、土地、家までも没収した。そのため、戦後日系人たちは並大抵ではない労働で生活を立て直していった。文化や芸術に触れる余裕もなかった。

八島さんと共に私は、日系人に文化や芸術にかかわるよう説いた。芸術に興味を持つよう美術展やバザールのイベントを行った。こうしたことが社会の美術への意識の拡大につながってゆくと私は信じていた。6年間、私は積極的に運動にかかわっていった。そして20歳の時、日系美術協会会長を任された。


そのころの日系人たちの生活は、まだ厳しいものであった。特別な技術や才能を持たない限り、平均労働賃金は1時間1ドルであった。日本人はとにかく、こつこつとよく働いた。私の母も昼間は洋縫店でミシンがけをし、夜は遅くまでレストランで働いていた。私もハウスボ―(白人の家事手伝い)をして小遣い銭や画材費をつくっていた。

15歳の時、若さゆえの反抗か、母との意見の衝突がたび重なった。母とのやり取りで「登は日本へおくり帰す」という言葉を真正面から受け止めた。アメリカ生活がおもしろいと感じ始め、美術に夢中だった時だった。「今、日本に戻されてはならない」と本気で考え、家を出る決心をした。

個室で食事付き、月に45ドルの給料。私は住み込みでハウスボーイで働くことにした。朝、食事の支度と後片付けを終えてから中学校へ行く。帰ったらすぐ、家中の掃除と食事の準備。食事の時にはテーブルのそばに立ってサービスをした。高級レストランのボーイのように、白の上下のスーツを着せられ、腕にロングナプキンをかけ、スープをついだり肉を取り分けたりした。

土曜日は洗濯と庭仕事と決まっていた。私は早朝に起き、仕事を済ませ美術大学へ通った。日曜は仕事は休みであったが、作品を制作するのに1日のほとんどを費やした。

15歳で親元から離れ、働きながら学校へ通い絵を描きつづける。今思い起こせば毎日が精一杯であった。日本人の少年はまじめでよく働くと評価された。



ハウスボーイを雇う家は、上・中階級でどの家も豊かな暮らしをしていた。人を雇い、自由な時間や豊かさを楽しむ西洋人たちだった。それに比べ、昼夜を問わず働き続け、文化や芸術に触れる時間もない日系人たち。自立することによって私は、初めて現実の世界を受け止めた。

アートとは、時代と現実を知ることから始まる。現実の積み重ねの中、その現実を知ることから始まる。現実の積み重ねの中、その現実を深く理解することによって、未来のイメージを創造していく。私はこの2つの現実の違いを知り、15歳の目を通して、社会に対しての疑問や問題を考え始めた。

 
(2001年7月17日 熊本日日新聞 掲載文より)
 
 
 
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