坂口登自伝 坂口登

マイノリティー 「独自のかたち」創造決心



1973年6月、カリフォルニア芸術大学院を修了後、私はすぐに自動車でニューヨークへと発った。できる限りのキャンバスと絵の具を積み込み、3か月分ほどの生活費を持ってマンハッタンに入った。そのころのニューヨークの街はホームレスがあふれていた。まず生活の基盤を作らねばとあるバイトを探したが、どこも相手にしてくれない。知り合いの知り合いに訪ね、やっと大工や作家の手伝いをすることになった。作品を作るためにニューヨークに来たのだからと、アルバイトは週3日と決めた。


グループ展に作品を発表していく中で、57丁目にあった「ノベギャラリーのディレクターの目にとまり「個展をしないか」と誘われた。ニューヨークに来て4年目のこと。今から30年前のニューヨークで、わずか4年目で個展が開けたのは非常にラッキーなことであった。

70年後半、ニューヨークのアートシーンは活気に満ちていた。1度個展をやると、いろんな美術関係者と知り合うチャンスができた。

あるとき、電話で呼びされ訪ねていくと、ニューヨークでも名の通ったアートコレクターのペントハウスだった。トイレ、シャワー室にピカソの絵をかけ、ベッドの上には天井が抜け落ちそうなぐらいの大きな絵(500号ほど)を飾り、家中がアートで埋まっていた。「作品を美術館に貸すので空いたスペースに絵を描いてほしい」という話であった。この仕事はアメリカ・ヴォーグ誌に取り上げられ、これを見た別のアートディレクターから個展開催の電話がかかってきた。


78年、ニューヨーク現代美術作家としての個展が決まった。画商や画廊とかかわることでニューヨークのアートシーンの現実を知ることができた。アメリカはスターをつくり上げ、経済を動かす。アートの世界も同様であった。ニューヨークの「レオ・カステリーギャラリー」を中心に3、40人の画商が取り巻く。彼らは新人作家の作品を展覧会前に買い集め、作家のイメージをつくり上げる。そしてお互いに協力し合い、作品の価値をどんどんあげ、経済を動かしスターをつくり上げてゆく。

”スターづくり”の中心になった画商レオ・カステリーはイタリア系ユダヤ人であった。アメリカのメジャーな作家もほとんどがユダヤ系であった。人種のるつぼであるアメリカでは、同じ人種で力を持ち合い、自分たちの社会を築こうとする仲間意識が強くなる。アイデンティティーを守るパワーを築くためである。マイノリティーとマジョリティー。美術の世界にも社会と同じ構図があった。東洋人というマイノリティーの私は、自分というアイデンティティーを深く見つめ「独自のかたち」を創造せねばと、強く決心した。


作家は作品をつくり続ける中で自分と現実の「かたち」を見定めていく。私はひたすらキャンバスに向かい絵筆で「点」を振りつづけた。1つのキャンバスに何層にも何層にも点を降りそそぐ。私は、自分の内面の無意識の次元にまで入り込んだ。

自分を出し切ろうとするとき、1つの流れの中に、もう1つの「かたち」が浮かび上がってくる。それは、12歳で渡米した私が受けた、重層した2つの文化体験そのものだった。アメリカの生活の中で自分の気持ちを表現しようとすると、自分が思ってもいないもう1つの答えが返ってくる。1つの事柄に対して2つの違う感じ方―。それは西洋と東洋の感じ方の違いだった。私の作品は内面に隠された2つの世界「ダブル・アイデンティティー」を瞬間の「点」で捉え、2分割された「形」へと動き始めた。それは、自己のオリジナルとは何かを問い自分を追及してゆく道であった。

 
(2001年11月20日 熊本日日新聞 掲載文より)
 
 
 
COPYRIGHT (C) 2005 Susumu SAKAGUCHI PAINTING. ALL RIGHTS RESERVED.